てらさんあっとほーむ てらさんあっとほーむ
提言-寺島義幸の想い
<21世紀は「個」を大切にする時代>

 江戸時代までは、「徳川家の繁栄のために」とか、「豊臣家の繁栄のために」というような「○○家のために」という封建時代であった。
 明治維新がなされ、それからは、富国強兵に代表されるように「国家の繁栄のために」という「とにかくお国のために」という時代であった。このとき一国一制度のもと中央集権国家体制が出来上がった。そして戦後は先進国に追いつけ、追い越せと「経済戦士」といわれるような、「エコノミックアニマル」といわれるような「会社や団体のために」というような、経済優先の時代であった。
 明治以来の中央集権国家体制のもと、私たちの先輩はその勤勉さと努力によって、世界第2位の高度経済成長をなし得、まさに豊かな社会を築いてくれた、誠にこの上のない幸せであり、感謝の極みである。しかし、バブル経済が崩壊して10年以上も経過してしまった。
 もうかつてのような右肩あがりの成長が望めないとするなら、これから私たちはどのような方向に歩みを進めれば良いのだろうか?

 ここまで成熟した社会が出来上がった以上もう中央集権国家体制は限界ではないだろうか?
 21世紀は東京一極集中を排し、地方多極分散をはかり国土の均衡ある発展が必要であるといわれている。ならば、今こそ権限と財源を伴った「ほんとうの地方分権」を力強く推し進める時であると思う。「徳川家の繁栄」の時代から「国家の繁栄」の時代へ、そして「会社や団体優先」の時代から「個人」を大切にする時代へと歩みを進める必要があると思う。「個人」を大切にするということは、利己主義とは異なる。個人個人が「相手を大切にする」「相手を思いやる」ということである。それがほんとうの「個人主義」である。すなわちそれは、個人個人にしてみれば「お互いさま」という事であり「個人」が集まって「社会」を造るのだから、そこには当然「共生」や「自己責任」が重要である。だから「お互いさま」という価値観が「 個 」の集団である「社会」をささえるということが大切なのである。
 今まで中央集権であるが故に、どちらかといえば「おかみ」を向いて行動をして来た社会であったかもしれない。しかしこれからは、「個」を原点とした「生活者」を起点とした、地域社会づくりが必要である。すなわち、身近な問題は身近な行政が担当してこそ「個」をより大切にすることが出来るのである。そのためにも、「地方多極分散型社会」をめざさなければならない。
 そして、21世紀は、「文明の追求」をするだけでなく、その地域々々にふさわしい個性に満ちあふれた「文化の創造」に努力し「個」を大切にする時代であると思う。


<地方分権と市町村合併について>

 私が生まれた年、すなわち昭和28年に地方制度調査会の第一回答申がなされた。
 以来何度となく地方への権限移譲の論議がなされてきたが、一向に進まなかった。本格的に地方分権が世論の場で叫ばれ始めたのは、十数年前のことである。
 そして、ようやく地方分権推進法が制定された。合併特例法の期限は平成17年である。

 地方分権とは何なんだろう???

 ご承知のとおり、わが国は、明治以来、世界に例を見ないほどの強力なる中央集権国家体制が続いてきた。だからこそ、戦後たった半世紀足らずで、世界第二位の経済大国に成長することができた。もちろん、そこには米国の存在や先人の大いなる努力があったことを忘れる事は出来ない。そして、21世紀は、物の豊かさから心の豊かさの時代であり、経済優先から生活優先の時代であり、官僚主導から民間主導の時代であると言われている。現代の成熟した社会にとっては、中央集権国家体制、言い換えれば、中央官僚主導体制そのものの構造を変える必要があるのだろう。即ちそれが、分権ということである。国家としての中央政府が担当する権限と、それぞれの地域が担当する権限とをはっきり分け、役割分担をして行くことが地方分権と言うことであろう。

 地方分権がなされ、それぞれの地域で主体性と自己責任を持って自治体が運営されるためには、自治体の組織のそれなりの規模が必要になってくる。つまり、基礎自治体がどうあるべきか、と言うことである。

 長野県には人口800人ぐらいの小さな村から358千人の長野市まで120の市町村がある。
 人口800人の小さな村民でも、長野市の市民でも、学校、病院、福祉施設、文化施設、道路環境等々、行政に対する要望は誰でも一緒であろう。しかし、小さな町や村では、住民の要望を十分満たすことは非常に困難である。これからは、住民の要望を概ね満たすことが出来る自治体の規模が必要であり、それが基礎自治体であるべきであると思う。
 また長野県には10地域の広域連合が組織されている。それぞれの地域での消防やごみ処理などは、広域連合でその役割がなされている。
 広域連合の役割がはっきりし十分に機能すれば、行政サービスが出来る限り後退しない基礎自治体の規模がどうあるべきか、おのずと見えてくるような気がする。
 さらに、私たちの先人が築いてくれた、それぞれの地域の歴史や文化をないがしろにすることは出来ない。
 先人が脈々と築いてくれた、歴史や文化を検証し、30年、50年先を見据えた基礎自治体のあり方を考える必要があると思う。
 したがって、これからの議論の結果として、市町村合併にたどり着く事が理想である。


<されど再び教育県をめざして>
子供達未来から来た留学生である
未来に「夢」と「希望」と「目標」を

 今日まで民主主義の根幹は、自由・平等・博愛であると言われて来た。しかし、真の民主主 義とは「自由」の反対側には「責任」があり、「平等」の反対側には「個性の認め合い」があり、 「博愛」の反対側には「厳罰」があるべきである。
「自由・責任」「平等・個性の認め合い」「博愛・厳罰」この六つが機能してこそ現代社会に おける真の民主主義と言えるのである。

 私達は生きているのではなく、そのほとんどが生かされているのである。
「ひと」は家族や周りの人や自然の恵みや社会によって生かされているのである。「ひとり」「 ひとり」はお互い様である、だから私達にとって家族や周りの人や自然の恵みはかけがえのない 大切なものである。

 未来から来た子供達が夢と希望と目標を持って大人社会に立派に巣立つ為には、「自己自立の精神」 を養い、お互い様という「共生の心」を育み、社会に役立つ十分な「教養」を身につける必要がある。 「人格教育」と「知識教育」の調和である。

 即ち、[結果重視の教育政策]から[過程重視の教育政策]への転換である。


<ボランティアについて>

『ええっこ』お互い様という方言である。
 30年ぐらい前、わたしたちの小さいころは、例えば、向こうの家のおばちゃんが風邪を引いて寝込んだと聞けば、隣の家から夕食の御菜にと言って野菜の煮物が届く。 こっちの家で急な弔事ができたと聞けば隣の家から子供を預かってやると言ってくれる。数日間、旅行にでも行くことになれば、隣の家に声をかければ一安心であった。 『お互い様だから』という心根が、地域相互共存の中で『合言葉』のようになり、それが地域独特の伝統文化を築いてきた。
 しかし、近年経済の進展とともに核家族化が進み、人々はより良い生活を望み、夫婦共働きに勤しむ。すると、当然、社会的交際範囲は広がり、足元の地域の交際には 煩わしさを感じるようになる。多様化した経済合理化社会に到達した現代においては、もはや『お互い様』という合言葉は、『煩わしい』という合言葉に取って変わりつ つあるのだろうか?
 だが、そんな現代社会にボランティアが必要であるとすれば、摩訶不思議である。便利屋さんにでも依頼して経済的に解決したほうが、煩わしくないということになる  のではないか。そうではないはずだ。質の高い経済合理社会であればこそ、個人を大切にしなければならない。つまり、社会的条件不利者を弱者にしてはならないので  ある。それが、福祉社会を目指す、福祉国家を目指すということであると思う。

『行く道、来た道、同じ道。いつかは自分も行く道ならば・・・お互い様だから』

 つまり、『お互い様だから』という『心のサービス』こそが、ボランティア精神であり、その『心のサービス』を何かの形にする人、すなわち、【自由意志で自発的に奉仕活動をする人】=【volunteer】であると思う。
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好きな言葉
… 一視同仁 …
 韓愈「原人」の「聖人一視而同仁、篤レ近而挙レ遠」より
 差別をつけず、すべての人を同じように愛するということ。



鯉